「――高橋様、もう少々お待ち頂いてもいいでしょうか……?」 おそるおそる尋(たず)ねてみると、高橋様はだいぶイライラされているご様子で。「あのさあ、オレ急いでるんだけど。いつまでかかんのかなあ?」「もっ、申し訳ございません!」 お待たせしている立場の私は、陳謝(ちんしゃ)しながらも何とかスピードアップを図(はか)ろうとするけれど。焦(あせ)れば焦るほど手元が狂(くる)い、そしてまたパニクるという悪循環(じゅんかん)に。――万事(ばんじ)休(きゅう)す!「誰か助けて……!」 泣きそうな声で私が呟いたその時、救世主が! 二人も! ……ん? 二人?「巻田先輩! 大丈夫っすか!? オレが代わります!」 先にヘルプに飛んできてくれたのは、都立大学二年生のアルバイト・今西(いまにし)翔(かける)クン。今日は土曜日で大学が休みなので、朝から一緒のシフトに入っている。「今西クン、ありがとう! ……あっ、でもレジも混んできてるし……」 レジには行列ができていて、一人で応対している清塚店長がてんてこ舞いしている。 ――そこへすっ飛んできたのは……。「今西クン、君はレジのヘルプお願い。――奈美ちゃん、ここはあたしが代わるから。売り場の仕事に戻っていいよ」 私のパソコンオンチを知っている同い年のフリーター・沢村(さわむら)由佳(ゆか)ちゃん。彼女は短大を卒業後、就職はせずにここで働き始めたらしい。作家仲間以外では数少ない私の友達の一人だ。「はっ、ハイっ!」「ありがと、由佳ちゃん! ゴメンね!」 彼女の圧(あつ)に怯(ひる)んだ今西クンはレジの補助に入り、由佳ちゃんが「失礼致します」と高橋様にお断りを入れて、私の作業を引き継(つ)いでくれた。 私が四苦(しく)八苦(はっく)していたパソコン作業もサクサクこなし、高橋毅司様のご予約の確認もすんなり取ってくれたのだ。「――高橋毅司様ですね? ご予約の商品はこちらでお間違いないでしょうか?」 私としてはすごく助かったけれど、同時に由佳ちゃんには申し訳ない気持ちでいっぱいになった(もちろん今西クンにも)。 由佳ちゃんと私。同じ二十三歳なのに、どうしてこうも違うんだろう? ――私は商品の補充作業を再開しながら、由佳ちゃんの仕事ぶりをチラ見してはこっそりため息をついていた――。
* * * * ――その日の夕方、終業時間。「「お疲れさまでしたぁ!」」「お疲れっした! お先に失礼しまっす!」 朝九時から夕方四時までの勤務を終えて、私と由佳ちゃん、今西クンの三人は清塚店長と遅番の人達に挨拶して退勤した。 タイムカードを押してからロッカールームでエプロンを外し、お店の通用口から出る。 夕方にもなると少し冷(ひ)えるので、私も由佳ちゃんも白い七分袖(そで)ブラウスの上からパーカーを羽織(はお)っている。「んじゃ、オレこっちなんで! お疲れっした!」 今西クンは帰る方角が違うので、今日も由佳ちゃんとお喋(しゃべ)りしながら帰ろう。――そう思っていたけれど。「ゴメン、奈美ちゃん! ここでちょっと待ってて!」 何か買うものがあったらしい彼女は、私を待たせて店内へと引き返した。 待つこと数分後――。「お待たせ~、奈美ちゃん☆ ジャ~ン♪」 お店から出てきた由佳ちゃんは、文庫本が入るサイズのビニール袋から買ったばかりの本を取り出して私に見せてくれた。「あっ、それ……私の最新作? わざわざそれ買いに行ってくれてたの?」 彼女が買っていたのは、今日発売された私の最新刊。実は彼女はデビュー当時からの私の小説の大ファンで、新刊が出るたびにこうして欠(か)かさず買ってくれているのだそう。「これ、ウチの店にあったラスト一冊だよ」「えっ、ウソ!? そんなに売れてたんだ」 私にはちょっと信じられなかった。私の書いた本が、(他の書店さんではどうか知らないけれど)ウチの書店で発売初日に完売するなんて……!「そうなんだよ。あたしも今日は買えないんじゃないかと思ったくらいだもん」「由佳ちゃん……、ありがと!」 私は感激のあまり、道端(みちばた)で彼女に抱きついた。彼女の方も困るどころか、「ちょっと厚(あつ)かましいんだけど」と私に頼(たの)みごと。「ナミ先生、ここにサインお願いします!」 本の見開き部分を開き、バッグから自前の(!)サインペンを出して私に差し出した。「用意よすぎ! ――いいよ。ファンサービスも作家の仕事だしね」 サインペンなんていつも持ち歩いてるの、と苦笑いしながらも、私は由佳ちゃんから本とペンを受け取ってスラスラとサインする。「はい、できた! 大事にしてね」「わーい、ありがと! これ、一生の宝物にするよ
「――それにしても、今日は忙しかったね」「うん……。土日に忙しいのはいつものことだけど、今日発売の新刊多かったからね」 由佳ちゃんもそうだけど、新刊は発売日に買いたいというのが人間の心理らしい。「予約の確認でパニクった時、店長にヘルプに来てほしかったけど。店長も大変そうだったし。だから、由佳ちゃんが助けてくれてよかった」「いいのいいの。友達だもん、当たり前でしょ?」 彼女は私が高校を卒業(で)てからできた、一番親(した)しい友達だ。バイトを始めたのは彼女の方が少し先だったのに、全然先輩ヅラしないで対等に接してくれている。「っていうかさあ、店長はヒマな時でもほとんど奈美ちゃんのヘルプに入ってくんないじゃん?」 由佳ちゃんが清塚店長に対する毒舌(どくぜつ)を吐(は)き始めた。「あー……、うん。確かに……」 悲しいかな、反論したくてもできない。 由佳ちゃんの言う通り、店長は私がパソコン操(そう)作(さ)で困っている時、ほとんど助けてくれない。今日みたいに忙しくて手が離せない時には「仕方ない」って諦めることもできるけど。明らかに手が空(す)いている時にもそうだと「なんで?」と思ってしまう。……けど。「あれってわざとシカトしてんじゃないの? だとしたらパワハラだよね」「由佳ちゃんがそんなに怒んなくても……。店長にだって、きっと何か考えがあるんだと思うよ」 私はさりげなく、清塚店長のフォローをした。 別に店長の肩を持つつもりはないけれど、原口さんのパターンもあるから一概(いちがい)に「店長はパワハラ上司だ」と言い切れないのだ。「そうかなあ? でも、あんまりヒドいようならあたしが抗議してあげるから!」 由佳ちゃんは鼻息も荒(あら)く宣言してくれたけれど。「由佳ちゃん、気持ちは嬉しいけどホントにいいから。店長とか他の人の手を借りなくても困らないように、私も努力してるの」「えっ、そうなの?」「うん。編集者の原口さんに言われたんだ。『いつか必ず努力は実を結ぶんだ』って」 そう電話で言われた時の、彼の温かいけど真剣な声を思い出して、私が一人赤面していると……。「ああ。〝原口さん〟って確か、奈美ちゃんの好きな人だっけ?」 私が彼に恋心を抱いていることは、もう由佳ちゃんにも打ち明けてあった。彼女はその時にも、自分のことみたいに一緒にはしゃいでくれ
「いいじゃん、奈美ちゃん! 恋は人を成長させてくれるんだよ? そんなに恥ずかしがることないって!」「そう……かな?」 ……恋愛小説家が本業の私が、こんなことでどうするの! というか、本職(プロ)の私よりも由佳ちゃんの言っていることの方が文学的だ。私も見習わなきゃな。……じゃなくて!「そうだよ! あたし、全力でナミちゃんの恋応援してるから! その人とうまくいくといいね」「うん、ありがと。私頑張る!」 由佳ちゃんと話しながら帰っていると、その日の疲れとかイヤなこととかを忘れられるから不思議だ。そして元気になれるし、勇気をもらえる。やっぱり友達っていいな。 ――交差点で、私は由佳ちゃんと別れた。「次に一緒のシフトになるの、明後日(あさって)だね。んじゃまた! お疲れ!」「うん、またね。お疲れさま!」 由佳ちゃんと別れてから、私はマンション近くのコンビニに寄った。 私は料理が好きで、普段はちゃんと自炊(じすい)するのだけれど。今日はもうクタクタで何か作る元気もないので、晩ゴハンのおかずになりそうな冷凍食品を何種類か買って帰ることにしたのだ。幸(さいわ)い、ゴハンだけは朝炊(た)いてきてあるし。 買い物を終え、コンビニの袋を提(さ)げてマンションに帰ったのは夕方五時少し前。「――はあー、疲れた……」 ウチのマンションにはエレベーターもないので、どれだけ疲れていても二階までは階段を上がっていかなければならない。二階に住む私でこれなのだから、三階以上の住人はもっと大変だと思う。 こうしてヨロヨロと階段を上がって二階に辿(たど)り着いた私を、部屋の玄関前で待っている男性が一人――。 ……原口さん?「――あっ、先生。どうもお疲れさまです」 それは私が行ったのとは違うコンビニの袋を提げた、紛(まご)うことなき原口さんだった。彼は私に気づくと、ペコリと頭を下げた。「どうも……」 私も会釈(えしゃく)を返す。「バイトの帰りですよね?」「ああ、はい。途中で買い物してきましたけど。――あの、今日はどうしたんですか? 仕事……じゃないですよね?」 彼の服装が、ジャケットを着込んだ〝お仕事スタイル〟なのが私は気になった。 編集者という職業柄(がら)、土日関係ナシなのは分かっているけれど。少なくとも私との仕事ではないはず。私の次回作が出るのはもう少し
「まあ、仕事といえば仕事なんですけど。別の先生に用があって……、でもちょっと困ったことになってるんで、先生と酒でも飲みながら相談に乗って頂こうかと思いまして」 原口さんは肩をすくめながらそう言って、提げている重そうな袋を私に見せた。 中に入っているのは五〇〇ミリリットル入りの缶チューハイが五、六本。あとはさきイカやチーズたらなどのおつまみだ。「先生って酒豪なんでしょう?」「はい。っていうか、原口さんも飲むんですね。知らなかった……」 少し前に琴音先生から聞くまで、彼の私生活なんてほとんど知らなかったから。そもそも彼とお酒を飲んだことだって一度もなかったし――。 そういえば、琴音先生はどうしてあんなに原口さんのことをよく知ってるんだろう? ――そう思った時、私の中でまた小さな疑念(ぎねん)が燻(くすぶ)り始めた。 二年前に琴音先生と別れた元カレって、もしかして……?「――巻田先生、どうかしました? なんか浮かない表情(かお)してますけど」 原口さんに呼びかけられて、私はハッと我に返った。どうやら一人で考え込んでいて、彼に心配をかけてしまったらしい。「あっ、いえ。何でもないです。ゴメンなさい。――えっと、原口さんてお酒飲むんでしたっけ?」 もしかしたらさっき、彼は答えてくれていたかもしれないけれど。「いえ、あんまり強くはないんですけどね。今日は飲まなきゃやってられないんで」「はあ」 ヤケ酒を呷(あお)りたくなるほどのことがあったのだろうか? だとしたら、担当してもらっている作家としては(もちろん個人的にはそれだけじゃないのだけれど)放っておけるはずがない。「分かりました。今日は二人でとことん飲みましょう! どうぞ、上がって下さい」 私は鍵(かぎ)を開け、彼を招き入れるとリビングに通した。「じゃあ私、ちょっと着替えてきますから。ソファーに座って待っててもらえますか?」 バッグをソファーの隅っこに下ろし、コンビニの袋をダイニングテーブルの上に置いてから、私は原口さんに言った。「はい」 原口さんは素直に頷き、いつもの定位置に腰を下ろした。 私は例の寝室(兼仕事部屋)に入るとドアを閉めて、窮屈(きゅうくつ)な仕事着からゆったりした普段着に着替えてからリビングに戻る。 原口さんは仕事で来たわけではないからなのか、いつもよりリラックスし
「――さてと、そろそろ飲み始めます?」 時刻はそろそろ五時半。お腹(なか)も空いてきたし、飲み始めるにもいい頃(ころ)合(あい)だと思う。「そうですね。つまみはこんなものしか買ってないですけど……」 袋の中身をローテーブルの上に並べながら原口さんが頷いた。これだけのおつまみじゃ、お腹はいっぱいになりそうにないな……。あ、そうだ!「私も晩ゴハンのおかずにしようと思って、冷凍のギョーザとか唐揚げとか買ってきてあるんです。それも温(あった)めておつまみにしませんか?」「それ、いいですね! ありがとうございます!」 ――数分後。私がレンジで温めてきたギョーザやシューマイ・唐揚げなどのお皿もローテーブルの上に並び、二人だけのささやかな宅(たく)飲み会が始まった。 お酒は各々(おのおの)グラスに注(つ)ぎ、皿の上のおつまみ(おかず系)を箸(はし)でつっつき合う。 自他共に認める(?)酒豪だけあって、私はどれだけ飲んでも全く顔に出ない。でも、原口さんは相当弱いらしくて、ちょっと飲んだだけですぐに顔が赤くなった。 これだけ下戸(ゲコ)な彼が「飲まなきゃやってられない」なんて……。一体何があったんだろう? 私は原口さんが本格的に酔(よ)っ払ってしまう前に、思いきって彼に訊ねてみた。「原口さん、ヤケ酒飲むほど困ってることって、一体何があったんですか?」「実は……、蒲生(がもう)大介(だいすけ)先生のことなんですけど」 アルコールが少し入って緊張の糸が緩(ゆる)んだせいか、彼はためらいながらも話し始めた。「蒲生先生って……、〈ガーネット〉のレーベルの中で一番のベテラン作家の!?」 そこにとんでもないビッグネームが飛び出し、私はビックリして飲んでいたチューハイでむせそうになった。 蒲生先生はもう五十代半(なか)ば。作家としてのキャリアは三十年以上になるらしい。 彼は私の憧れであり、目標とする作家でもある。母が大ファンだったのをキッカケにして私もハマり、作家を志(こころざ)すことにしたのだ。「そうです。今日、彼の脱稿日だったんで、原稿を受け取りに伺ったんですけど。『書けなかった』って言われたんです。『一枚も書けなかった』って」「ええっ!?」「まあ、事情があって書けなかったというなら、僕も理解できなくはないんですけど」「違った……んですか?」 私の問
「それは……、原口さん個人で解決できないなら、島倉(しまくら)編集長に間に入って話をつけてもらうべきなんじゃないですか? 後任者も見つけてもらわなきゃいけないし」 島倉編集長は五十代前半のバリバリのやり手編集者で、蒲生先生がまだ売れていない頃には彼自身が担当についていたこともあったそう。 一度は組んでいたこともある彼の説得になら、蒲生先生も耳を傾(かたむ)けてくれると思う。「そうですよね……。先生はガッカリなさったんじゃないですか? ずっと憧れだった蒲生先生がそんな人だったって知って」「私のことはいいんです。それより、この問題を解決する方が先決でしょ? ――よし! 私から編集長に連絡してみますね」 私はバッグからスマホを取り出し,電話帳で島倉さんの連絡先を検索した。何かあった時のためにと登録してあったのだ。「――あった! コレだ。発信しますね」「あっ、待って下さい!」 電話をかけようとした私を、原口さんが制止した。「えっ?」「あの……、先生に相談しておいて何なんですけど。やっぱり、先生が首突(つ)っこまれるのは筋(すじ)が違うと思うんで……」「……ああ、そうですよね。なんか出すぎたマネしてゴメンなさい」 原口さんのいっていることはもっともだ。私はスマホを引っ込めた。私としたことが。好きな人の力になりたいと思うあまり、つい余計なマネをしてしまった……。「そのお気持ちだけで、僕は十分嬉しかったです。僕のことを心配して下さってのことですよね? ありがとうございます」「ええ、まあ……」 原口さん、買いかぶりすぎ。――まあ、半分は当たっているけど、もう半分は自己満足でしかないのに。 私は照れ隠(かく)しで、またお酒のグラスに口をつけた。酔っていることを口実(こうじつ)にしたいのに、〝ザル〟だから酔わない自分が恨(うら)めしい。「――それにしても、先生ってホントにアルコールに強いですよね。僕、羨ましいです」 私よりだいぶ赤い顔で(私の顔が赤いのは酔っているからでは断じてない)、原口さんが少々呂律(ろれつ)が怪しい調子で言った。「羨ましい? ――ああ、琴音先生も同じこと言ってましたけど。お酒が強い女性って、男性的には色気がないだけなんじゃ?」「そんなことないですよ。僕個人としては、ですけどね。むしろ、酔ってやたら絡(から)んでくる女性の方
――今日一緒に飲んでみて分かったけど、原口さんは酔うとやたら饒舌(じょうぜつ)になるみたい。普段は口数の少ない人なのに。「……ねえ原口さん。あなたって完全に酔い潰(つぶ)れちゃうとどうなるんですか?」「う~んと……。僕は全く覚えてないんですけど、どうも〝素(す)〟が出ちゃうらしいです」「〝素〟……って」 一体どんな状態? って訊いてみたいけれど、本人が覚えていないんじゃ訊いても仕方ないか……。まあ、だいぶ酔いが回ってきているみたいだし、この後イヤでも分かるだろうけれど。「――そういや、先生の元カレさんはどうだったんですか? 先生の酒豪っぷり見て引いてました?」「え……」 どうして今更(いまさら)、潤(アイツ)のことなんか訊くんだろう? 私にとってはもうキレイさっぱり過去のことなのに。 でもきっと、彼は酔いが醒(さ)めたら訊いたことさえ忘れるんだろう。――そう思うから、私は答えてあげることにした。「アイツは引いてなかったかなあ。あなたと一緒で下戸だったから、『お前の方が男らしいよな』って笑ってましたね」 潤も基本的にはいいヤツだった。私もアイツのことが好きだったから付き合っていられたのに……。「井上さんとは僕も面識ありますけど。あの頃は先生といい感じに見えたのに、どうして別れちゃったんですか?」 私は答えに詰(つ)まる。――どう答えたらいいんだろう? というか、いつかは誰かに訊(き)かれるだろうと思っていたけれど。まさか、自分が想いを寄せている相手ご本人から(酔った勢いとはいえ)正面切って訊(たず)ねられるとは思ってもみなかった。「えーっと……、簡単に言えば〝すれ違い〟……になるのかなあ」 ひとまずそう答えてから、私と潤が別れることになるまでの経緯(いきさつ)を整理していった。「潤とは大学に入ったばかりの頃、アイツの方から告(コク)られて付き合い始めたんです。私も次第(しだい)にアイツのこと好きになっていって、二人はけっこういい関係を続けていってたと思います。――私の小説家デビューが決まるまでは」「……というと?」 原口さんが首を傾げる。 私とアイツが別れた原因は、彼には理解できないだろう、実に下らないことだった。
「近石さん。……あの」「はい?」 作家にとって、自分の手で生み出した作品は我が子も同然(どうぜん)。だから……。「私の作品(ウチの子)を、どうかよろしくお願いします!」 我が娘(コ)を嫁に出すような想いで、私は近石さんに頭を下げた。原口さんはそんな私を見て唖然(あぜん)としているし、近石さんも面食らっているけれど。「……はい。お任せ下さい。必ず先生のご期待にお応えできるような、いい映画にします! では、僕はこれで」 頼もしく頷いて、近石プロデューサーは編集部を後にした。「――それにしても、『ウチの子』は大ゲサすぎませんか?」 二人きりになった応接スペースで、原口さんが笑い出した。「まだ結婚もしてないのに『ウチの子』って……」「ちょっと原口さん! 笑いすぎでしょ!?」 も
「バレました? 実はそうなんです。僕ももっと早く先生にお話しするつもりだったんですけど、先生が喜ばれるかどうか心配で。僕よりも映画のプロの口から伝えていただいた方が説得力があるかな……と」「はあ、なるほど」 私も自分が書いた作品の出来(でき)には自信があるけれど、「映画化するに値(あたい)するかどうか」の判断は難しい。そこはやっぱり、プロが判断して然(しか)るべきだと思うのだ。「僕は先生がお書きになった原作の小説を読んで、『この作品をぜひ映像化したい!』と強く思いました。それも、アニメーションではなく、生身(なまみ)の俳優が動く実写の映画にしたい、と。それくらいに素晴らしい小説です」「いえいえ、そんな……。ありがとうございます」 私は照れてしまって、それだけしか言えなかった。自分の書いた小説をここまで熱を込めて褒めてもらえるなんて、なんだかちょっとくすぐったい気持ちになる。それも、初対面の男性からなんて……。「――あの、近石さん。メガホンは誰がとられるんですか?」 どうせ撮ってもらうなら、この作品によりよい解釈をしてくれる監督さんにお願いしたい。「監督は、柴崎(しばさき)新太(あらた)監督にお願いしました。えー……、スタッフリストは……あった! こちらです」 近石さんが企画書をめくり、スタッフリストのページを開いて見せて下さった。「柴崎監督って、〝恋愛映画のカリスマ〟って呼ばれてる、あの柴崎監督ですか!?」 私が驚くのもムリはない。私と原口さんは数日前に、私の部屋で彼がメガホンをとった映画のDVDを観たばかりだったのだから。「わ……、ホントだ。すごく嬉しいです! こんなスゴい監督さんに撮って頂けるなんて!」「実は、主役の男女の配役ももう決まってまして。あの二人を演じてもらうなら、彼らしかいないと僕が思う演者(えんじゃ)さんをキャスティングさせて頂きました」 近石プロデューサーはそう言って、今度は出演者のリストのページを開いた。「えっ? ウソ……」 そこに載っているキャストの名前を見て、私は思わず声に出して呟いていた。「……あれ? 先生、お気に召しませんか?」「いえ、その逆です。『演じてもらうなら、この人たちがいいな』って私が想像してた通りの人達だったんで、ビックリしちゃって。まさにイメージにピッタリのキャスティングです」 こん
「いえ、僕もつい今しがた来たところですから」「あ……、そうでしたか」 TVでもよく見かけるイケメンさんに爽やかにそう返され、私はすっかり拍子抜け。――彼が敏腕(びんわん)映画プロデューサー・近石祐司さんだ。「先生、とりあえず冷たいお茶でも飲んで、落ち着いて下さい」「……ありがとうございます」 原口さんが気を利かせて、まだ口をつけていなかったらしい彼自身のグラスを私に差し出す。……私は別に、彼が口をつけていても問題なかったのだけれど。 ……それはさておき。私がソファーに腰を下ろし、お茶を飲んだところで、原口さんがお客様に私のことを紹介してくれた。「――近石さん。紹介が遅れました。こちらの女性が『君に降る雪』の原作者の、巻田ナミ先生です。――巻田先生、こちらはお電話でもお話しした、映画プロデューサーの近石祐司さんです」「巻田先生、初めまして。近石です」「初めまして。巻田ナミです。近石さんのお姿は、TVや雑誌でよく拝見してます。お会いできて光栄です」 私は近石さんから名刺を頂いた。私の名刺はない。原口さんはもう既に、彼と名刺交換を済ませているようだった。「――ところで原口さん、さっき『君に降る雪』って言ってましたよね? あの小説を映画化してもらえるってことですか?」 その問いに答えたのは、原口さんではなく近石さんの方だった。「はい、その通りです。
「――どうでもいいけどさ、奈美ちゃん。早くお弁当(それ)食べちゃわないと、お昼休憩終わっちゃうよ?」「えっ? ……ああっ!?」 壁の時計を見たら、十二時五十分になっている。ここの従業員のお昼休憩は三十分と決まっているので、残りの休憩時間はあと十分くらいしかない! 慌ててお弁当をかっこみ始めた私に、由佳ちゃんがおっとりと言った。「奈美ちゃん、……喉つまらせないようにね」 * * * * ――その日の終業後。「店長、お疲れさまでした! 由佳ちゃん、私急ぐから! お先にっ!」 清塚店長と由佳ちゃんに退勤の挨拶をした私は、ダッシュで最寄りの代々木駅に向かった。 原口さんは、近石プロデューサーが何時ごろにパルフェ文庫の編集部に来られるのか言ってくれなかった。電車に飛び乗ると、こっそりスマホで時刻を確かめる。――午後四時半。近石さんはもう編集部に来られて、原口さんと一緒に私を待ってくれているんだろうか? 私は彼に、LINEでメッセージを送信した。『原口さん、お疲れさまです。今電車の中です。近石さんはもういらっしゃってますか?』『いえ、まだです。でも、もうじきお見えになる頃だと思います』 ……もうじき、か。神保町まではまだ十分ほどかかる。先方さんには少し待って頂くことになりそうだ。私が編集部に着くまでの間、原口さんに応対をお願いしようと思っていると。 ……ピロリロリン ♪『ナミ先生がこちらに着くまで、僕が近石さんの応対をします。だから安心して、気をつけて来て下さい』 彼の方から、応対を申し出てくれた。『ありがとう。実は私からお願いするつもりでした(笑)』 以心(いしん)伝心(でんしん)というか何というか。こういう時に気持ちが通じ合うって、なんかいいな。カップルっぽい。……って、カップルか。 ――JR山手線(やまのてせん)の黄緑色の電車はニヤニヤする私を乗せて、神保町に向かってガタンゴトンと走っていた。 * * * * ――それから約十五分後。 ……ピンポン ♪ 私は洛陽社ビルのエレベーターを八階で降り、猛ダッシュでガーネット文庫の編集部を突っ切っていった。「おっ……、遅くなっちゃってすみません!」 奥の応接スペースにはすでに原口さんと、三十代半ばくらいの短い茶髪の爽やかな男性が座っている。私は息を切らしながら、まずはお待た
「どしたの? 奈美ちゃん」「うん……。彼からメッセージが来てるの。えーっとねえ……、『お疲れさまです。このメッセージを見たら、折り返し連絡下さい』だって」 LINEアプリのトーク画面に表示されている文面はこれだけで、肝心(かんじん)の用件は何も書かれていない。「何かあったのかなあ? 返信してみたら? 『どんな用件ですか?』って」「返信より、電話してみるよ。その方が早いし」 私は履歴から彼のスマホの番号をタップし、スマホを耳に当てた。『――はい、原口です』「巻田です。なんかさっき、メッセージもらったみたいなんで折り返し電話したんですけど。たった今気がついて」『ああ、そうなんですか。――今日はお仕事ですか?』「はい。今はお昼休憩中なんですけど。――何かあったんですか?」『はい。えーっと、映画プロデューサーの近石(ちかいし)さんという方から、「巻田先生にお会いしたい」ってお電話を頂いて。今日の夕方に編集部でお会いすることになったんで、連絡したんです』「映画プロデューサーの近石さん……、あっ! もしかして、近石祐司(
――数日後。今日のバイトは久々に由佳ちゃんと一緒のシフトになった。 新作の原稿も順調に進んでいるし、原口さんとの関係も良好。ここ最近の私は公私(こうし)共(とも)に充実している感じだ。「――客足も落ち着いてきたね。二人とも、お昼休憩に行っておいで」 正午を三十分ほど過ぎた頃、清塚店長が私達アルバイト組に休憩をとるように言ってくれた。「「はい。行ってきます」」 休憩室の机の上にお弁当を広げ、由佳ちゃんとガールズトークをしながらのランチ。この日も当然、そうなるはずだった。……途中までは。「――そういえば、最近どうなの? 五つ上の編集者さんの彼氏とは」 由佳ちゃんは最近、私の恋愛バナシにご執心(しゅうしん)みたいだ。「うん、順調だよ。――由佳ちゃんの方は?」 私はお弁当箱の中の玉子焼きをお箸でつまみながら答え、今度は私から由佳ちゃんに水を向けた。「うん……。彼とはねえ、最近連絡取ってないの」「えっ? ケンカでもしたの?」 少し前まで幸せそうだったのに。予想外の答えに私は目を丸くした。「ううん、そうじゃないんだけどね。彼、最近忙しいみたいで……」 由佳ちゃんの彼氏は中学校の教師で、私の予想では多分三年生を受け持っている。「そっか……。でも、中学校の先生だったら今ごろはきっと、ホントに忙しいんだろうね。文化祭の準備とかテストとかで」 私はさり気なくフォローを入れる。それに、三年生の担任だったりしたらきっと、生徒の進路の相談に乗ったりもしているんだろうから、さらに忙しいだろうし。「少し時間が空いたら、彼からまた連絡くれると思うよ。だから、彼のこと信じて待つしかないんじゃない?」「……そうだね。あたし、彼のこと信じる」 さっきまでちょっと元気のなかった由佳ちゃんは、食べかけでやめていたコンビニのエビマヨのおにぎりをまたモグモグし始めた。「――にしても、奈美ちゃんはいいなあ。仕事でも私生活(プライベート)でも、大好きな人と一緒なんでしょ? 『離れたらどうしよう?』なんて心配はなさそうだし」 冷たい緑茶でおにぎりを飲み下した由佳ちゃんが、羨ましそうに私に言った。「うん……、まあね。逆に言えば、プライバシーもへったくれもないってことになるんだけど。別に私は困んないし」 むしろ四六時中(しろくじちゅう)彼と一緒にいられて幸せだから、私はそ
* * * * ――翌朝、原口さんはバイトに出勤する私に合わせてわざわざ早く起きてくれたので、一緒に朝ゴハンを食べた。今日のメニューは白いゴハンに焼き鮭(ざけ)、キュウリとナスの浅漬け、そしてきのことカボチャのお味噌汁。秋が旬の食材をふんだんに使ったメニューだ。 たまには洋食の朝ゴハンにしようかとも思うのだけれど、原口さんは和の朝食がお好みらしい。「――そういえば、ナミ先生って和食以外もよく作るんですか?」 ゴハンをお代わりしながら、彼が訊いた。……あ。そういえば彼がウチで食べる料理ってほとんど和食だ。洋食系のメニューって食べてもらったことあったっけ?「うん、作りますよ。中華とかカレーとかも。でも、さすがにハヤシライスは作ったことないなあ」 昨日のデートで、彼と一緒にカフェで食べたハヤシライスはおいしかった。……でも、自分で「作ってみたい」とまでは思わない。私は創作の面では結構攻めるタイプだと思うけれど、どうも他の面では守りに徹(てっ)するタイプみたいだ。 そういえば恋愛でもそうだった。原口さんのことが好きだと気づいた時だって、自分からはグイグイ行かなかった……と思うし。「――僕、ナミ先生が作ってくれる和食大好きなんですけど。たまには洋食系のメニューも食べてみたいなあ……なんて。……すみませ
* * * * ――結局、彼はやっぱり泊っていくことになった。 洗い物を済ませてから二人で交代に入浴し、寝室で甘~~い時間を過ごしたら、私は無性に書きたい衝動(しょうどう)にかきたてられた。「――ゴメンなさい、原口さん。私、これからちょっと仕事したいんですけど。机の灯りつけてても寝られますか?」 私が起き上がると、彼は「仕事って、執筆ですか?」と訊き返してくる。「そうです。眩しいようだったら、ダイニングで書きますけど」「いえ、僕のことはお気になさらず。……ただ、明日出勤でしょ? あんまり遅くまでやらないようにして下さいね」「うん、ありがとうございます。キリのいいところまでやったら、適当に寝ます。だから気にせず、先に寝てて下さい」 私はベッドから抜け出して、部屋着の長袖Tシャツの上からパーカーを羽織り、机に向かった。書きかけの原稿用紙を机の上に広げ、シャープペンシルを握る。 ノートパソコンは、相変わらずネットでしか稼働(かどう)していない。タイピングの練習は、時間が空いた時だけやっている。でも、パソコンで執筆する気にはやっぱりなれない。 原稿を書きながら、数時間前に観た映画のラブシーンとついさっきまでの彼との濃密(のうみつ)な時間を思い出しては、一人で赤面していた。私が書いている恋愛小説は濃厚(のうこう)なラブシーンが登場するようなものじゃなく、主にピュアな恋愛を描いているものがほとんどなのだけれど。 私の恋は、小説やTVドラマや歌の世界を地(じ)でいっている気がする。 潤のことも、もちろん本気で好きだった。だから、「小説家なんかやめろ」って言われてすごく傷付いたんだと思う。「どうして好きな人に応援してもらえないの?」って。 でも、原口さん相手ほどは燃えなかったなあ。こんなにどっぷり好きになった相手は、多分彼が初めてだ。そして、ここまで愛されているのも。 だって彼は、私のことを丸ごと愛してくれているから。私のダメなところも全部認めてくれて、決して貶さないし。……こんなに出来た彼氏は他にいないと思う。 ――集中してシャーペンを走らせ、原稿用紙十五枚を一気に書き上げると、時刻は夜中の十二時過ぎ。いつの間にか日付が変わっていた。「ん~~っ、疲れたあ! そろそろ寝よ……」 私はシャーペンを置き、思いっきり伸びをした。ふと、後ろのベッド
「――さて、と。まだ時間も早いですけど、DVDでも観ます?」 私はソファーから立ち上がると、ミモレ丈(たけ)のデニムスカートの裾を揺らしてTVラックの所まで行き、彼に訊ねる。 今日は映画を観てきたけれど、この部屋の中での時間の潰し方は限られる。TVを観るか、DVDを観るか、仕事するか。それとも…………。「いいですけど。ちなみに、どんなジャンルですか?」「ワンパターンで申し訳ないんですけど、恋愛映画……。洋画と邦画、どっちもありますけど」 これでも恋愛小説家である。他の作家さんの恋愛小説だけでなく、時にはコミックやTVドラマ・映画などを作品の参考にすることもあるのだ。そういう意味で、恋愛映画のDVDは資料としてこの部屋には豊富に揃(そろ)っている。「じゃあ……、邦画の方で」「了解(ラジャー)☆」 私が選んだのは、〝恋愛映画のカリスマ〟と名高い若手映画監督がメガホンをとった映画。今日観て来た映画とは違う、ドラマチックな演出をすることで有名な人の作品だ。 ――でも見始めてから、この作品を選んだことを後悔した。「「わ…………」」 途中で際(きわ)どいラブシーンが流れて、何となく気まずい空気になったのは言うまでもない。 あまりにも生々しすぎるラブシーンを直視できず、TV画面から視線を逸らしてチラッと隣りを見遣れば、原口さんは瞬(まばた)きひとつせずに画面に釘付けになっていた。 ……目、大丈夫かな? ドライアイにならない? 私は彼の顔の前に手をかざして上下に動かしてみる。「お~い、起きてますかぁ?」「…………ぅわっ!? ビックリした!」 ハッと我に返った彼のガチのビックリ顔がおかしくて、私は思わず吹き出した。「ハハハ……っ! めっちゃ見入ってましたねー」「スミマセン」 お家デート中に彼女の存在そっちのけで映画に見入っちゃうなんて、なんて彼氏だ。……まあでも、面白いものが見られたからよしとしよう。「――あ、終わった。ちょっと刺激強すぎたかな……」 映画は二時間足らずで終わった。プレイヤーから出したディスクをケースに戻し、次に観る時はもう少し刺激の少ない映画にしようと思った。「お風呂のお湯、入れてこようっと。――先に入りますか?」 この調子だと、今日も彼はこの部屋に泊まっていくことになりそうなので、私はバスルームに向かいがてら彼に訊ね